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◎ 仮説: 2種類の奏法論の明暗
外さないように吹く事を目指した吹き方と、
表現する事を目指した吹き方では、
そもそも脳の命令系統が違う。
(外さないことを目指した吹き方はいずれ行き詰まる。)
1. どちらを目指すか
前者は確実に唇を振動させ、出したい音を出したいときに出せることを目指す吹き方。
後者は空間に音を描き積極的に音楽を表現しようとする吹き方。
体の使い方は全く同じように整えているのに、目的が違うと体の動き方は全く異なるのです。
過去にこんな時期がありました。
ジストニアらしい動作はもうほとんどないし、体の使い方についてもこれ以上考えられることはないはず。それでも吹けない時、吹くのが怖い時がある。
もう大丈夫なはずなのになぜ…?
そんな時おもしろい事が起きました。生まれて2ヶ月になるうちの子、練習しているとこちらを見てるんです。
そんな我が子をよそに悶々と吹き方研究してるのもおかしな話なので、
不安定なりにも我が子に向けて”演奏”するようになりました。
誰かに向けて”演奏”すると、何故か今まで作ってきた動作とは全く違う反応が起きるのです。
2. 奏法研究と演奏表現では世界が違う
「外さないように振動を作ろうとして音を出すときの吹き方と、周囲に伝えようとして空間に音を描くときの吹き方とでは、そもそも回路が違う。」
体感としてこれしかないな、と。
どちらも同じように体の使い方を整えています。それなのに体の反応の仕方が全然違う。明らかに体の反応の仕方が違うのです。
アンブシュアができるプロセスも楽器の鳴り方も視野も気分も違う。
極端な言い方をすれば、奏法に囚われている時と演奏表現をしている時とでは取り組んでいること自体が違うと言えるかもしれません。
前者は音は鳴るが生き生きとした演奏にならない。安心を求めているのにどんどん吹くのが怖くなる。
後者は不安定な時期を経て、徐々に生き生きと表現できるようになってくる。
ただ後者で練習するには、不確実さや不完全さに対して寛容である必要があり、ボロボロな演奏をオープンにする勇気が必要です。
それを認めてくれる暖かい環境が必要であるとも言えるかもしれません。
〜演奏するのが怖い人へ〜
体の使い方を整えて吹きやすい状態を作った上で、是非空間に対して表現する練習をしてみてください。最初はボロボロだっていいじゃないですか。
音を出す、演奏をする、という事は本来めちゃくちゃ楽しい事だったはず。
それをどこかでちゃんと覚えているから続けているんだと思います。
思い出して、その場所を取り戻しましょう。
例えば歩くにしても、
この場所に行こうと思って歩くのと、
歩くためにはこの筋肉を収縮させて…
と考えて歩くのでは体の動き方も心理的プレッシャーも全然違うんじゃないかな。
僕の仕事はどうしたら生き生きと演奏できるかを伝えることであって仕組みを解明することではないのですが、単純に興味があります。
今回のお話はあくまでも僕の体感ベースの直感でしかありません。根拠があると強いのですが…
P.S
リハビリの研究をしていた方に問い合わせてみたところ、聴覚での答え合わせによる動きか、筋感覚での答え合わせによる動きかでやはり回路が違うそうです。詳しくは僕には説明できませんが…笑 ただこの直感はどうやら正しいことは確かなようです。